許せなくってもいいじゃない。
こんにちは、黄玉です。
今日はひとつ、心のお話を……。
心理学でもスピ系の本でも、「許しましょう」が一種のテンプレみたいになってますわな。
基本的には間違ってないですよね。
電車で足を踏まれて、一ヶ月もプンプン怒ってたら、そりゃあ怒りを手放したほうがいいですよ。
でも……。
許しを礼賛しすぎじゃないでしょうか?
「愛と許し」
素晴らしいですよね。
そうできたら文句ないでしょう。
でも、それを最終的なゴールに据えるのは、やや危うく感じます。
この動画では、ウェインさんの
「自分を捨てた父親をずっと呪ってきたが、
墓の前で二時間罵倒したあと、父を許すことにした。
そしたら、仕事が一気にうまくいった」
というお話が語られています。
スピ系許しの王道ストーリーでしょう?
(ウェイン・ダイアーは、超大物スピリチュアル作家で、この話をよく語っています)
そして彼は、愛と許しを説くようになった……。
だけど彼は、原因不明の体の痛みに苦しめられている。
(その痛みをなんとかしようとして、EFTタッピングを学んでいたわけです。
現在は、もうお亡くなりになっています)
いや、その痛みさあ……あなたの抑圧された心の悲鳴なんじゃないの?
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』
ガボール・マテ
そんなきれいごとばっかり言って、原因不明の痛みを抱えてるときいたら、
そりゃ「心になんかあるんだろ」と思ってしまいますよ。
本当は、愛もなく、許しもできなかったんじゃないの?
無理はよくないですよ。
「許しましょう」は、いとも簡単に「許せない私はダメなんだ」に反転してしまいます。
そうなると、また別の苦しみが生まれます。
というか「許しましょう」みたいに、最初からゴール設定して、
心をそっちへ持っていこうとするたくらみは、ぜんぜんうまくいかないような気がします。
だってそれ、エゴで考えたことじゃない?
「相手を許すのは高尚なことで、自分はそうするべきなんだ」みたいな。
「月収100万円になって、モテモテになりたい」という目標と、根っこは同じなんじゃないでしょうか。
そもそも「心をコントロールしよう」という、その姿勢が間違ってるのじゃないのかな~。
「許そう」と思う前に、「許せない」という気持ちに寄り添ったほうがいいと思いますけど。
我々は、神ならざる人の身です。
愛と許しは、イエス様にお任せしておけばいいのです。