ここからは占いブログらしく、河口慧海とスピリチュアルについて触れていきましょう~。

 

しかしまあ、スピリチュアルどころの話ではないですね。

この人、ホンモノの法力を持ってそうなんですから。

死にかけた子どもを生き返らす! 仏陀の声を聴く! 占いは当然百発百中!

 

慧海は僧侶(ラマ)として、ちょくちょく占いを頼まれます。

その占いには、易を使っているみたいなんですね。

 

下僕の方では再びその主人と私の所に来て、どうかあなたを観て戴きたい、ラサへ帰って罪になって苦しむような事があるかまた帰らずにここに居る方がよいかという事を一つ観て戴きたいというものですから、

 

この時代、知識人にとって易経は基礎的教養だったので、慧海が知っていたとしてもおかしくありません。

けれどそれは東洋哲学としての易であって、占い師のように実践的占術をマスターしている人は珍しいと思います。

 

その日ちょっとまた面白い事があった。二里ばかり行くとごくあらけない四人ばかりの人が私の馬に乗って居る前まで来て立止まり、一斉いっせいに礼拝を行うてお願い申したいことがあるという。
何かというと「私共は北方からパーリーへ塩を売りに出て来たものですが、一昨夜ヤクに草を喰わして居る間に番人が居眠って居ったものですから、ブータンの人間かチベットの人間か分りませんが四十五、六疋持去られてしまいました。その盗人を捜しに来たのですがどの方向へ逃げて行きましたか見て戴きたい。もしブータンの方へ行って居るものならばこれから引還ひきかえして南の方に行かなければならぬ。チベットへ持去ったものならばこれから北に進んで行かなければならぬ。誰に見て貰うという人もないからどうか見て貰いたい」という。私はそんな事を知らんというのも可哀そうですから、ちょっと占筮者のような真似をして「急いで北の方へ行けば今日中に見付けることが出来る」といってやった。

 

私が先に見てやって北原人のヤクを取られた者が四人ともやはり私の泊って居る所へ帰って来て、盗まれただけ一頭も失わずに連れて帰ることが出来ましたといって私を仏のごとくに礼拝して、二タンガーにカタを一つ添えてくれたです。

 

 

しかも人相を見る時は、テキトーなことをいっただけなのに、それがたまたま当たります。

 

私は人相見をした事はないけれども、チベット人は非常に迷信が深いから少しは戒めにもなるだろうと思って、その男に向い、あなたは気の毒なもんだ、金や品物が沢山入って来ても、また人から損を掛けられたり、あるいは偶然な災難に出遇うてせっかく貯ためた金を時々に失くしてしまい、いつも借金に苦しむという質だと、こう言いましたところが、案外にも其言が非常に適中したものと見えてびっくりして、いやこれは実に驚いたと言って呆気あっけに取られ、その事をその近所での一番大家ドルジェ・ギャルポ(金剛王)という人の家に行って私の事をすっかり話したとのことで、その夜その家の奥さんと見える綺麗な方が子供を伴つれてどうか人相を見てくれと言って出て来ました。

 

だいたい、慧海の占いに対する態度はイイカゲンです。「占いなんてくだらん。土民の迷信だ」くらいにいってます。

それなのに「たまたま・てきとう・何となく」いったことがズバリ当たっています。

 

あふれるほどの法力があれば、占いなんて朝飯前なんでしょうなあ。

 

 

また慧海が身分を明かすかどうか迷った時、まさに仏の声としかいいようのない声がします。

 

この法林道場に来まして私は一種の非常なる感情に打たれました。いかにも釈迦牟尼如来に訣れを告げてこれから帰るとはいうたものの、せっかく日本人としてこの国に来て居ながら、どうも日本人ということを言明かさずにおめおめ帰って行くというのは意気地のない話だ。何とか他の人々に禍の及ばぬようなよい分別がないものか知らん。死ということは無論どこへ行っても免れない。早く死ぬか晩く死ぬかいずれとも死ぬに極きまって居る。この際死を的にして一つ法王政府に、私は日本人であるということを知らしてやろうか知らん。こういうよい文章(上書文)が出来たのに、この文章を示さずに殺してしまうというのは残念だと、非常な刺戟に打たれつつ出て参まいりましたが、不思議にもその法林道場の辺際あたりより、ギョクポ・ペブという奇態な大声が聞えました。
これはチベット語で和訳しますと、早くお越しなさいということで、一体この今の言葉は誰人が誰に話しかけたのかと、怪しんであたりを見回しますと誰も居らない。ただ夕陽が法林の樹枝に映って美しき緑光が放って居るばかりで……。が鶯の声でもないに何の声であろう。我が心中の迷いの声ででもあろうかなどと思うて二、三歩歩行あゆみますと、また不思議にもギョクポ・ペブという美しい大きな声が聞えました。こりゃ誰か私に告げるのじゃと思って、誰かといいつつ遠近を見廻わして、法林道場の後ろの方にも人が居らないかと索もとめて見ましたが誰も居らない……。いかにも不思議と思いつつ自分の舎に帰る方向に着きますと、またまた不思議の声が幾度か発しました。

ところで我が心はもはやチベットに留って居ては善くない、帰るということに決定しますと、その今まで叫びし声はなくなりました。

 

まさにオカルト。啓示。霊聴です。

断事観三昧とかできる人ですから、こういう事が起こっても不思議ではないでしょう。

 

 

その反面、慧海には非常なリアリストの一面があります。

チベット仏教で重要なのは「化身」という概念です。「今の法王は、〇代目の法王の生まれ変わりだ」というやつですね。

 

で化身はやはり昔のようにして自分はこういう所から生れて来たとか、あるいは私は死んで行く時分には今度はどういう所に生れるということを自ら言わぬその時はどういう風にして極きめるかといえば、まず誰か尊いラマが死んで四十九日経ちますと、その魂はどこかへ生れて行くことに極って居るというのがチベット人の信仰です。そこで暫く経つとどこへ生れたか見てくれというて聞きに行く。その聞きに行く所はいわゆる神下しの家です。聞かれると神下しは神様を下して告げるです。

 

では、慧海がこれをどう捉えているかというと……。

 

こういう風にするのですからその間に余り弊害もないようですけれども、私が駐蔵大臣の秘書官の馬詮(マツエン)という人から聞くところによると、随分弊害のあった事もあるようです。それは自分の子供が法王になれば、自分らは法王の王族としてシナ政府からは公爵を受くることが出来るのみならず財産も沢山に得られて、実にこの世における円満なる幸福を受けることが出来るというので、大いに賄賂を使って奔走する奴があるそうです。で、それらはまず駐蔵大臣に金を沢山遣り、それからまたチベットの高等僧官にも賄賂を沢山遣る。そうするとつまりその賄賂を受けた者の子供しか摘まんで出されないような方法にして置いてやったこともどうやらあるらしい様子です。

 

けれども大抵この神下しという奴は実に悪い奴で賄賂を貪むさぼり取ることは非常です。ですから神下しの坊さんには大変な金持があるです。現に法王政府のネーチュンのごときは恐らくチベット中の金満家といわれる位に金があるです。そこで大抵高等ラマの化身は多く貴族の子供とか、あるいは金満家の子供、大商法家の子供というような者が多い。それがおかしいじゃありませんか。貧乏人の子供にラマの化身が宿らないと極めてあるように、ほとんど十中の九までは皆富貴の家からその化身が出るという一段に至っては、必ずその間に何かの事が行われて居るに違いない。それはただ表面うわべから観察しただけでも分るですが、実際は全く妙な事が行われて居ますので、折々嫌な事を沢山耳にしたです。

 

これは私のしばしば見聞した事であって、決して表面から観察してこうであろうというような推測話じゃあない。だから化身の信ずるに足らんということはもう分り切って居る。昔の事はいざ知らず今の化身というのは本当の化身でなくって賄賂の化身であると私は言った事がある。

 

さてさて、今の時代はどうなんでしょうね?

 

まあこんなふうに、現実と霊性のバランスを取るのが大事なんでしょう。

決して、夢うつつに生きてはいけないということですね。